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Nietzsche ニーチェの軌跡

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

倫理の否定者

倫理や道徳を槍や盾にした脅迫。そうした脅迫を否定する。


倫理の否定者の種類・分類としては、こうした倫理の構造におけるどの段階を否定するのか。誤謬が人間を道徳的な行為へ駆り立てる。
倫理の否定者には二種類ある
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生きることは苦しみである

生きることは苦しみであるという仏教上の生苦。狭義の生苦は、生存本能に命令されるがまま生命活動を行う苦しさのことを意味する。
生命は賛美される傾向にあるが、生きていることこそ苦しみの原因であると捉えるのが生苦であり、しかしその原因は生きていることそのものにあるわけではないということを示唆するのも生苦である。

生苦

生きることは苦である、生きることは苦しみである、生まれてきたことは苦しみであるということを捉えるのが四苦八苦の四苦、生老病死の生苦の概念である。
「生苦」生きる苦しみ

虚栄心の捉え方

虚栄心(きょえいしん)は、いわゆる見栄をはり、自尊心を高めようということ。ニーチェによると虚栄心とは、独創的だと思われることに対する恐怖心=「誇りの欠如」。虚栄心とは他者に対して、現実の自分と比べて良くみせようと思うこと、自分をよく見せようと見栄を張ることや自惚れである。

虚栄心の原因と心理の裏側

怨憎会苦との向き合い方

怨憎会苦との向き合い方。「怨憎会苦(おんぞうえく)」は恨み憎んでいる人に会ってしまうこと。不倶戴天の敵と会う苦しみである。恨んだり憎んだりしている相手とも会わなければならない苦しみであり、それを思い出したり、会うことを想像する苦しみでもある。

怨憎会苦をよく考えると


ただ、怨憎会苦をよく考えると相手を嫌い、抵抗すると、相手の怒りに反応したことになる。
苦手意識を持った相手に対して「嫌いで苦手な心」をなくせない苦しみだが、ただでさえ嫌いな相手に、感情や行動をコントロールされるというのは徹底的にバカらしい。それを乗り越える方法がかならずあるはずだ。諸行無常ゆえ全ては変化し、自分も周りの人も常に変化していくので、いつどこで嫌いな要素が出てくるかはわからない。しかし少なからず怒りは、その裏に期待や固定観念があって、目の前の現象がそれに合致していないという感じのところから起こる。
怨憎会苦とは嫌いな人と出会わなければならない苦、それを考える。
怨憎会苦

あわれな人類と罪

悪魔のような犯罪者も、見方によれば被害者である。誰かの自己都合・自尊心の都合により優劣を定め、自尊心の高まりとは逆方向に虐げられる側にマイナスのエネルギーが生じ、それが最後に限界領域に来た時に犯罪者を作る。 あわれな人類!

女嫌い

女嫌い。「男性も女性も同じ人間だ」と勘違いしている人が多く見受けられますが、全く別の生命体。体の構造も異なっているのに、またホルモンからの影響なども異なるのに同じわけがない。女嫌いな男性の特徴。女性を苦手だと感じている男性、最近は女嫌いの男性が増えている。女嫌いの原因や特徴。女に関わる理由。

女嫌い

同情と共感 「同情の禁止」

ニーチェの有名な言葉で「同情の禁止」という概念がある。「乞食は禁止すべきである。乞食にやるのは癪にさわるし、やらないのも癪にさわるから」というものも有名だ。
同情と共感は似ているが、己の心にどう影響するかが全く違うので、似て非なるものである。同情と共感の違いは「同情は、相手の感情に同化し一緒に感情を味わうこと、共感は、相手の感情を理解すること」である。同情とは、主に「不幸な状況」にある相手の感情に同化することであり、一緒になって負の感情を味わうこと。同情の中には、「苦難に同情できる私は素晴らしい」というようなものもある。共感は、相手の意志や感情を理解することである。


同情と共感

仕事は信仰から必然的に出てくるはずであるというあの根本的な誤謬

曙光 22 仕事は信仰から必然的に出てくるはずであるというあの根本的な誤謬

仕事と信仰。信念として持っていることや信仰として持っていること、そして話していることなどと仕事内容に矛盾があるケース 仕事と信仰

認識の悲劇が終わるとき

認識の悲劇は、がっかりという気づきによって終りを迎える。認識の悲劇の終幕ということで自己犠牲の力とがっかりについて。体一つとっても常に変化をしている。今の自分と一秒前の自分も似たもの、似た働きが連続しているかのように起こっているだけで、別物といえば別物、同じようで違う、一瞬たりとも同じ自分であった試しはない。

認識の悲劇の終幕

病の苦しみ

仏教上の四苦八苦の一つ「病苦」病の苦しみ。この病苦(びょうく)とは、病の時、病気の時の苦しさでありながら、そうした病に冒されることからは逃れられない、「完全に逃れること」が不可能という意味で、四苦八苦として語られる。この苦は「思い通りにはならない」という苦しみを意味しドゥッカである。病気となると周りのせいにしてしまいがちだが、冷えてしまう環境や労働環境などなど、不自然な環境を選択してしまったのも結局元を辿れば思考の結果である。

「病苦」病の苦しみ

隣人愛「あなたの隣にいる人を愛しなさい」

「隣人愛」といえば、「あなたの隣にいる人を愛しなさい」というものです。新約聖書で馴染み深いフレーズです。しかしながら、愛することと、何かの要求に応えることは別物です。
隣人愛を盾に自己都合を押し付けてくる人もいますし、何かを為すこと、要求に応えることが正解ではない場合もあります。

別の隣人愛

人生に失敗

人生に失敗。「人生に失敗した」とか「失敗した人生だ」とか「人生が失敗続きだ」といったことに嘆く場合の失敗とは一体何なのでしょうか?成功という概念そのものが何かの基準によって成り立っているものであり、成功と失敗は単なる相対的な自己判断にしか過ぎません。

人生に失敗した人々

思考や感情

思考や感情というものは、ただの反応にしかすぎない。それを、あれこれこねくり回そうとすると、また反応が起こるだけ。しかしながら、ひとまず暗い思考のループなり、不快な感情なりを「何とかしたい」と思っているからこそ、それを弄くり回そうとするという構造は理解することができる。 --- 「苦」には「私」がついています。 「私」がこうしたいのに、こうなりたいのに、できない、なれない、という構造です。 「私」があると、過去や未来がついて回ります。 では、私を含めた世界から、「私」を引いてみると何が残るでしょうか。 思考や感情と私

力の感情

力の感情」といっても、支配欲のような、はたまた権力と言われるようなものの感情ではありません。そういった社会的な、誰かと誰かは「同じ世界にいるのだ」という錯覚から抜け出さないと、ニーチェの「力」すら理解はできず、誤解のまま終わってしまいます。力の感情
ルサンチマンは、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」です。何かが起こるときには何かの原因があり、人が何か意識の上でも行動を起こすとなれば、その手前には「衝動」があります。それを紐解いていくと、「力への意志」の正体がわかります。 ルサンチマンを含まないニヒリズムと「力への意志」

感情の解消の方法論としての考え方の同化

感情の解消の方法論としての考え方の同化は、ろくなものではなく「ルサンチマン」の典型例です。

ある種の「崇高とされる思想」や「ある偉人と同じ考え方」に同化することによって、自らの弱った心持ちを何とかしようとする試みです。聞く側は、動機が「奴隷精神」です。

どんな時でも、「弱さ」からの動機なのではないか、仮想の敵をイメージしたりしていないか、注意が必要でしょう。

感情の解消の方法論としての考え方の同化は、「ルサンチマン」の典型例

殉教に向かう方向性とルサンチマン

何かを崇拝し、敵の中に飛び込む、死を決して飛び込む様、つまり殉教に向かう方向性は、一種の自己陶酔であり、自惚れです。臆病者、つまり弱者の怨恨が、何かを崇拝するという形をもって、ルサンチマンとして解釈変更される試みです。ルサンチマンの一例。

盲目的前提条件と僻みの感情

方法論はあくまで方法論であって、その上には「絶対的に良いものですよ」というものは確定していないはずです。しかしながら、そのような語りの際には、おぼろげながらそれを飲み込んでいる場合があります。これが一種の洗脳状態であり、最大の危険性を孕んでいる最たるものです。

下手に反論すると「僻みだ」という叩きが待っています。僻みの感情ではないかということです。

これはルサンチマンではなく、論理上の当然の事実であり、解釈変更による自尊心獲得ではありません。

純粋な力への意志

純粋な力への意志。消極的ニヒリズムやルサンチマンを否定し、能動的ニヒリズムをもとに生を肯定ということを支えるのが自然な力への意志、権力への意志と呼ばれるものである。 「超人」と「権力への意志」

積極的ニヒリズムの義務教育解釈

積極的ニヒリズムの義務教育解釈 「すべてが無価値だというのなら、自ら積極的に仮象を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度がいい」ということを、ギムキョな人や体育会系が解釈すると、次のような結果が生じます。 積極的ニヒリズムの義務教育解釈 ただ、まずニーチェのニヒリズム自体が、ひとつの思想であり主義です。

五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦は別概念である

五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦は別概念である。略語ではない。 五蘊苦は、逃れ得ぬものであるが、五蘊盛苦は五蘊への執著から起こる苦しみであり逃れ得るものである。 五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦

自由思想家

自由思想家は、自由に思想を展開する者である。また、権威や宗教的超越的教理から脱し、人間の側の理性や良心の立場から思想を思索する思想家で啓蒙的理神論者も大きくはこれに含まれる。 その地域においての宗教を前提とした発想や風土・文化に縛られずに自由に思想を展開していくと解されよう。

自由行為家と自由思想家

厭世主義とニヒリズム

厭世主義(えんせいしゅぎ)もニヒリズムと似たようなものとして考えられることがあるが、悲観主義と同じように、世の中に対する期待があり、それを諦めたというような縋りの感覚を持つ。

同じ考え方の人間と違った考え方の人間

集中と智慧の方向は同じであり、知識と智慧は真逆である。知識、知識体系を出だしから排除しても良いが、その場合は排除する理由を説明できなければ戯言となる。 同じ考え方の人間と違った考え方の人間という対比の中で同じ違った考え方の人間への経緯があれば、その論理を覆す試行鍛錬が繰り返され、より高い次元の思考に到達できるが、同じ人間ばかり評価していると思考は停止する。 駄目になる

ダンマバダの諸行無常

諸行無常は矛盾しない。 そして諸行無常は情緒を示すものではない。諸行の行は形成作用を意味する。
一切の形成されたものは無常である(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である(ダンマパダ 277)
ダンマバダにも諸行無常の記述が見られ、その中では、明らかに一切の形成作用は無常であると記述されている。 よって諸行無常の諸行は、全ての物や現象、とりわけ客観的なものを意味するのではなく、この心に現れた「形成されたもの」を意味する。

支配者道徳と奴隷道徳とルサンチマン

支配者道徳と奴隷道徳の対比を見るとルサンチマンが見えてくる。キリスト教的奴隷道徳が利他的な弱者を賛美するようになったということが「道徳の系譜」で示され、その思考上の解釈変更としてルサンチマンという概念が出てくる。

プロフィール

HN:
Nietzsche memo
性別:
非公開
自己紹介:
Nietzsche
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
ドイツの古典文献学者、哲学者。
ニーチェ自身は「心理学者」を自称。

哲学、ニーチェ