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Nietzsche ニーチェの軌跡

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

虚構の事実と蓋然性

虚構の事実と蓋然性。蓋然性と推測。



世間での事実は全然事実ではなく事後的解釈であり、推定しその場で事実らしきものを意識の中で構築しているだけで事実ではない。ゆえに蓋然性が問題となる。情報だけを頼りに蓋然性と推測で何とか判断するしかない。
事実!そうだ虚構の事実!
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狂信の対象

狂信の対象 狂信の対象は、いわゆる宗教的なものだけではありません。企業や政治思想、末端はアイドルまで、様々です。

アイドルを仕立てあげて、殉教することに自惚れる、これは弱者の怨恨であるルサンチマンの表れです。ヒーローやアイドルだけではありません。愛社精神も含まれます。
彼は、自分とその同類が虐待されるのを我慢し、悲惨の全体を、新しい種類の自己欺瞞とお上品な嘘によって、神のさらに大きな栄光のためにさえなるように解釈するのである。彼は自己に敵対し、虐待される者として、その際殉教のようなものを感じる。

「信仰」という自己欺瞞

世間ではほとんどが信仰を持っています。そしてその信仰の正しさを主張することで苦しんでいるというのが実情でしょう。誰に何を訴えかけているのでしょうか。



信仰という言葉を見るとすぐに「それは宗教的な部類に入るから自分には無関係だ」という反応が起こるでしょう。たまに無宗派だと言っても、「それは無宗派という宗教だ」という人もいますから、やってられませんね。そんなにカテゴライズしたいのでしょうか。

「信仰」という自己欺瞞 陶酔への信仰

英雄崇拝と狂信

崇拝には狂信がつきものであり、英雄崇拝は対象が英雄ということにはなるが、何かを崇拝するということ自体がカルトである。



崇拝は狂信であり、対象が政治を含めた英雄であればよいというわけではない。候補者などを支援しつつ、聞かれてもいないのに「私はこの人を支持します」や「私も同じ考えです」と投稿するというのもひとつの狂気である。 英雄崇拝とその狂信者

懐疑はすでに罪である、に対して

懐疑はすでに罪である、に対して、これは一種の閉じ込めであると示唆する。 本来、疑うことで洗脳やマインドコントロールを回避することができる。 一方、疑うことは信じていないということであり、また信じているということは疑いを孕んでいるということでもある。 罪としての懐疑

行動の約束と感情の約束

行動の約束と感情の約束。感情の世界に制度の呪縛や行動の強制によって、感情を安定させようとする場合がありますが、約束というのは必ず「行動の約束」です。



行動の約束を守ってもいいですし、約束を守れなかった時の行動の補償はしてもいいでしょうが、感情は絶対に約束できません。その場は瞬間で変化しますから、感情の約束は性質上不可能です。

超人的な情熱に対する信仰のもつ価値

風習の倫理

倫理思想と風習の倫理…「風習とは、行為と評価の慣習的な方式である」結局宗教的なことを風習や文化だと解釈して倫理を定義している様がよくある。



風習の名の下、人格や概念の基礎ができるような時に宗教団体としての日本的仏教の方式を半ば強制されることは、無意識的にそれら宗教団体の正当性を支えるものとなりうる。

風習の倫理の概念

弱者の絆

不手際を棚に上げた弱者同志の絆。



何かしらのスキルをつけようともしなかったことを棚に上げて社会のせいにし、グチグチ言いながらもすがることしか出来なかった弱者たちは、弱者同志で群れ合って強者を非難する。 危機に瀕した者の慰め

賞讃や非難によってもたらすもの

賞讃や非難によってもたらすもの。それは自責の念を形成してマインドコントロールである。
賞讃と非難
その人の気分はその人の気分であり、特に気にする必要はない。 賞讃や非難に反応していると、賞賛を欲し、非難を恐れるという構造からマインドコントロールされてしまう。他人から賞讃を受けると喜び、非難を受けると落ち込んだり起こったりするというのが一般的ではあるが、そうしたマインドコントロールリスクがあることは忘れてはならない。そして、それを全く気にしないという境地が最も理想的である。

倫理の否定者

倫理や道徳を槍や盾にした脅迫。そうした脅迫を否定する。


倫理の否定者の種類・分類としては、こうした倫理の構造におけるどの段階を否定するのか。誤謬が人間を道徳的な行為へ駆り立てる。
倫理の否定者には二種類ある

虚栄心の捉え方

虚栄心(きょえいしん)は、いわゆる見栄をはり、自尊心を高めようということ。ニーチェによると虚栄心とは、独創的だと思われることに対する恐怖心=「誇りの欠如」。虚栄心とは他者に対して、現実の自分と比べて良くみせようと思うこと、自分をよく見せようと見栄を張ることや自惚れである。

虚栄心の原因と心理の裏側

あわれな人類と罪

悪魔のような犯罪者も、見方によれば被害者である。誰かの自己都合・自尊心の都合により優劣を定め、自尊心の高まりとは逆方向に虐げられる側にマイナスのエネルギーが生じ、それが最後に限界領域に来た時に犯罪者を作る。 あわれな人類!

女嫌い

女嫌い。「男性も女性も同じ人間だ」と勘違いしている人が多く見受けられますが、全く別の生命体。体の構造も異なっているのに、またホルモンからの影響なども異なるのに同じわけがない。女嫌いな男性の特徴。女性を苦手だと感じている男性、最近は女嫌いの男性が増えている。女嫌いの原因や特徴。女に関わる理由。

女嫌い

仕事は信仰から必然的に出てくるはずであるというあの根本的な誤謬

曙光 22 仕事は信仰から必然的に出てくるはずであるというあの根本的な誤謬

仕事と信仰。信念として持っていることや信仰として持っていること、そして話していることなどと仕事内容に矛盾があるケース 仕事と信仰

認識の悲劇が終わるとき

認識の悲劇は、がっかりという気づきによって終りを迎える。認識の悲劇の終幕ということで自己犠牲の力とがっかりについて。体一つとっても常に変化をしている。今の自分と一秒前の自分も似たもの、似た働きが連続しているかのように起こっているだけで、別物といえば別物、同じようで違う、一瞬たりとも同じ自分であった試しはない。

認識の悲劇の終幕

隣人愛「あなたの隣にいる人を愛しなさい」

「隣人愛」といえば、「あなたの隣にいる人を愛しなさい」というものです。新約聖書で馴染み深いフレーズです。しかしながら、愛することと、何かの要求に応えることは別物です。
隣人愛を盾に自己都合を押し付けてくる人もいますし、何かを為すこと、要求に応えることが正解ではない場合もあります。

別の隣人愛

人生に失敗

人生に失敗。「人生に失敗した」とか「失敗した人生だ」とか「人生が失敗続きだ」といったことに嘆く場合の失敗とは一体何なのでしょうか?成功という概念そのものが何かの基準によって成り立っているものであり、成功と失敗は単なる相対的な自己判断にしか過ぎません。

人生に失敗した人々

力の感情

力の感情」といっても、支配欲のような、はたまた権力と言われるようなものの感情ではありません。そういった社会的な、誰かと誰かは「同じ世界にいるのだ」という錯覚から抜け出さないと、ニーチェの「力」すら理解はできず、誤解のまま終わってしまいます。力の感情
ルサンチマンは、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」です。何かが起こるときには何かの原因があり、人が何か意識の上でも行動を起こすとなれば、その手前には「衝動」があります。それを紐解いていくと、「力への意志」の正体がわかります。 ルサンチマンを含まないニヒリズムと「力への意志」

感情の解消の方法論としての考え方の同化

感情の解消の方法論としての考え方の同化は、ろくなものではなく「ルサンチマン」の典型例です。

ある種の「崇高とされる思想」や「ある偉人と同じ考え方」に同化することによって、自らの弱った心持ちを何とかしようとする試みです。聞く側は、動機が「奴隷精神」です。

どんな時でも、「弱さ」からの動機なのではないか、仮想の敵をイメージしたりしていないか、注意が必要でしょう。

感情の解消の方法論としての考え方の同化は、「ルサンチマン」の典型例

殉教に向かう方向性とルサンチマン

何かを崇拝し、敵の中に飛び込む、死を決して飛び込む様、つまり殉教に向かう方向性は、一種の自己陶酔であり、自惚れです。臆病者、つまり弱者の怨恨が、何かを崇拝するという形をもって、ルサンチマンとして解釈変更される試みです。ルサンチマンの一例。

盲目的前提条件と僻みの感情

方法論はあくまで方法論であって、その上には「絶対的に良いものですよ」というものは確定していないはずです。しかしながら、そのような語りの際には、おぼろげながらそれを飲み込んでいる場合があります。これが一種の洗脳状態であり、最大の危険性を孕んでいる最たるものです。

下手に反論すると「僻みだ」という叩きが待っています。僻みの感情ではないかということです。

これはルサンチマンではなく、論理上の当然の事実であり、解釈変更による自尊心獲得ではありません。

自由思想家

自由思想家は、自由に思想を展開する者である。また、権威や宗教的超越的教理から脱し、人間の側の理性や良心の立場から思想を思索する思想家で啓蒙的理神論者も大きくはこれに含まれる。 その地域においての宗教を前提とした発想や風土・文化に縛られずに自由に思想を展開していくと解されよう。

自由行為家と自由思想家

同じ考え方の人間と違った考え方の人間

集中と智慧の方向は同じであり、知識と智慧は真逆である。知識、知識体系を出だしから排除しても良いが、その場合は排除する理由を説明できなければ戯言となる。 同じ考え方の人間と違った考え方の人間という対比の中で同じ違った考え方の人間への経緯があれば、その論理を覆す試行鍛錬が繰り返され、より高い次元の思考に到達できるが、同じ人間ばかり評価していると思考は停止する。 駄目になる

慈善家の世話と期待

慈善家の世話と期待。自立心があり、世話をする側ほど粗末に扱われる。出来の悪い世話をされる側ほど目にかけられ、世話をする側に好かれる。慈善家である助ける側は、頼られている、役に立っているという一種の満足感と、それを愛情だと錯覚しているところがあり自分の生き方の条件にしている。 慈善家

仲間の数を集めようとする弱い宗派

仲間の数を集めようとする弱い宗派。宗派に限らず何かの思想団体のようなものは、数で勝負しようと、仲間を見つけようとする。それには、数の力による発言権の獲得の意図もあるが、主義や狭義を多数の力で信じたいという意志の弱さや論理的な不完全性を示すものでもある。新興宗教・カルト宗教でなくとも、何某かの思想を持った団体、主義や主張を持った組織にはその傾向がある。 弱い宗派
        
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プロフィール

HN:
Nietzsche memo
性別:
非公開
自己紹介:
Nietzsche
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
ドイツの古典文献学者、哲学者。
ニーチェ自身は「心理学者」を自称。

哲学、ニーチェ