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Nietzsche ニーチェの軌跡

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

宗教の教義、書き換え可能な信念

「確認できない対象」を推測的に示し、信じるという行為によって排他性を持ちながら混乱を避け、未来に対する不安感を妄想で打ち消す。 これが宗教の構造であり、こうした教義が書き換え可能な信念の代表例。 書き換えが可能な信念 宗教の教義、書き換え可能な信念には不完全な論理構造が潜んでいる。
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無限にある既に形成された状態、そうした混沌と心

無限にある既に形成された状態、そうした混沌と心 この空間は、いまただ単にあるものがあるという状態です。 それはこの瞬間に確定しています。同時に、時間というものもあくまで自我が「再生」の如く捉えているだけになります。



この心はただの認識する働きです。受け取るだけです。

既にあるものと心

諸法無我 仏教と哲学

仏教にある諸法無我(しょほうむが)の概念は哲学的にも素晴らしい論理が成り立っている。しかしながら諸法無我はわかりにくい概念であり、わかりやすく説明することが難しい。



諸法無我
仏教の三宝印・四法印として有名な諸法無我あるいは諸法非我(しょほうひが)は、パーリ語で「sabbe dhammā anattā」。これは、全てはあらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」というものは無いというような意味(厳密には「我ならざるもの」)。しかし、その理の中には複数の意味が複合的に内包されている。因縁によって生じたものであり実体がないというのが基本的な意味であり、因と縁により今生じているだけというのが諸法無我である。

五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦

五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦について。
五蘊盛苦(五取蘊苦)とは、「五種の執著の素因は苦しみをもたらす」「五種の素因への執著が苦しみを生じさせる」という意味であり、五蘊苦とは異なる。



五蘊とは、色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)の色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊である。
そして、五蘊に対する執着から生まれるものが五蘊盛苦(五取蘊苦)であり、五蘊苦は、五蘊から生じる即時的な苦しみである。
五蘊苦は、五蘊から生じる即時的で直接的な刺激等々であるため、どうすることもできない。
この、「どうすることもできない」ということに執著するというのが五蘊盛苦(五取蘊苦)である。


五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)五種の執著の素因は苦しみをもたらす

「ゼロ」の概念がもたらす錯覚と「苦」

「ゼロ」の概念がもたらす錯覚と「苦」について。



仏教上の求不得苦や愛別離苦は、「ゼロ」の概念がもたらす錯覚により生起する。 数学上の概念であるゼロが不足を生み出す。 本来認識の対象となるのは、あるように見える対象の1であり、0は想像上の0でしか無い。 記憶の連続性の中での記憶や想像と現実のギャップがあった時に想起される錯覚がゼロや不足である。そしてこの錯覚は精神としての苦しみを生む。 ゼロの錯覚

仏教上の死苦を哲学的に捉える

仏教上の死苦を哲学的に捉えると、死そのものの苦しみではないことがわかる。
仏教の四苦八苦における死苦(しく)とは、死ぬ苦しみ、死の苦しみでありながらも、哲学上、経験は生の上にあるものであり、死そのものは経験し得ないため、厳密に考えると「死に対する恐怖」や「死にたくないという思い」から起こる苦しみを示すことになる。また、「死は免れない」ということを示す。 一般的に想起される死は頭の中で起こる現象としてしか形成され得ない。



死苦は対象が死になっているものの、哲学的に考えると生命としての死ぬ苦しみ、死の苦しみといったものは矛盾となり、論理の構造上死苦は、この生や生命への執著がもたらす苦しみであることを示すことになる。 「死苦」死ぬ苦しみ
死を想起し、死に恐怖を覚えたところで何をどうすることもできないという中、生への執著から苦しみ、不満足が起こる。これが仏教上の死苦である。

真理とは

真理とは、真なる理(ことわり)であり、真実の道理。よって真理は誰にでも確認できる断りでなければならない。真理が書かれているから聖典であり、聖典の記述であるから真理であるというようなものは論理がおかしい。



真理とは、誰にでも再現可能であり、今すぐに確認できるものであり、誰かの主義や考え方で変更できないようなものです。

真理とは何か?

過去は変えられない、未来は変えられる

過去は変えられない、未来は変えられる。をよくよく考えよう。



「過去と他人は変えられない。しかし、いまここから始まる未来と 自分は変えられる」他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」という言葉はカナダ出身の精神科医であるエリックバーンの言葉として有名?
いやいや少し待て。まだ来ていない「未来」が確定していないのに「変えられる」のはおかしい。

過去は変えられないが、未来は変えられる 論理破綻

確定しているものを変更するというのが「変える」であり、「変えることが可能である」という場合には、今現在、対象が意識の上ででも確定している必要がある。過去と他人は変えられない。いまここから始まる未来と 自分は変えられるというのはおかしい。「過去」と「他人」は変えられない。変えることができるのは「 自分」と「未来」だけである。? 変えられるのは「自分」と「未来」?いやいや論理が破綻している。

アフォリズム 箴言

アフォリズム 箴言、警句。 アフォリズム(aphorism)


アフォリズムとは、簡潔にまとめた言葉、短い文章。 哲学、仏教、心理 アフォリズム。 社会、経済 アフォリズム。

「苦」には「私」がついているゆえ、私を取り除くとどうなるか?

「苦」には「私」がついているゆえ、私を取り除くとどうなるか? 「苦」には「私」がついています。 「私」がこうしたいのに、こうなりたいのに、できない、なれない、という構造です。 「私」があると、過去や未来がついて回ります。 では、私を含めた世界から、「私」を引いてみると何が残るでしょうか。 思考や感情と私 
思考を使って思考の領域を出ることはできません。厳密には限界まで達すれば端の方までは到達することはできます。しかし思考の領域を出る、換言すれば自我の領域を出るということはありません。

生きることは苦しみである

生きることは苦しみであるという仏教上の生苦。狭義の生苦は、生存本能に命令されるがまま生命活動を行う苦しさのことを意味する。
生命は賛美される傾向にあるが、生きていることこそ苦しみの原因であると捉えるのが生苦であり、しかしその原因は生きていることそのものにあるわけではないということを示唆するのも生苦である。

生苦

生きることは苦である、生きることは苦しみである、生まれてきたことは苦しみであるということを捉えるのが四苦八苦の四苦、生老病死の生苦の概念である。
「生苦」生きる苦しみ

怨憎会苦との向き合い方

怨憎会苦との向き合い方。「怨憎会苦(おんぞうえく)」は恨み憎んでいる人に会ってしまうこと。不倶戴天の敵と会う苦しみである。恨んだり憎んだりしている相手とも会わなければならない苦しみであり、それを思い出したり、会うことを想像する苦しみでもある。

怨憎会苦をよく考えると


ただ、怨憎会苦をよく考えると相手を嫌い、抵抗すると、相手の怒りに反応したことになる。
苦手意識を持った相手に対して「嫌いで苦手な心」をなくせない苦しみだが、ただでさえ嫌いな相手に、感情や行動をコントロールされるというのは徹底的にバカらしい。それを乗り越える方法がかならずあるはずだ。諸行無常ゆえ全ては変化し、自分も周りの人も常に変化していくので、いつどこで嫌いな要素が出てくるかはわからない。しかし少なからず怒りは、その裏に期待や固定観念があって、目の前の現象がそれに合致していないという感じのところから起こる。
怨憎会苦とは嫌いな人と出会わなければならない苦、それを考える。
怨憎会苦

病の苦しみ

仏教上の四苦八苦の一つ「病苦」病の苦しみ。この病苦(びょうく)とは、病の時、病気の時の苦しさでありながら、そうした病に冒されることからは逃れられない、「完全に逃れること」が不可能という意味で、四苦八苦として語られる。この苦は「思い通りにはならない」という苦しみを意味しドゥッカである。病気となると周りのせいにしてしまいがちだが、冷えてしまう環境や労働環境などなど、不自然な環境を選択してしまったのも結局元を辿れば思考の結果である。

「病苦」病の苦しみ

思考や感情

思考や感情というものは、ただの反応にしかすぎない。それを、あれこれこねくり回そうとすると、また反応が起こるだけ。しかしながら、ひとまず暗い思考のループなり、不快な感情なりを「何とかしたい」と思っているからこそ、それを弄くり回そうとするという構造は理解することができる。 --- 「苦」には「私」がついています。 「私」がこうしたいのに、こうなりたいのに、できない、なれない、という構造です。 「私」があると、過去や未来がついて回ります。 では、私を含めた世界から、「私」を引いてみると何が残るでしょうか。 思考や感情と私

五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦は別概念である

五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦は別概念である。略語ではない。 五蘊苦は、逃れ得ぬものであるが、五蘊盛苦は五蘊への執著から起こる苦しみであり逃れ得るものである。 五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦

ダンマバダの諸行無常

諸行無常は矛盾しない。 そして諸行無常は情緒を示すものではない。諸行の行は形成作用を意味する。
一切の形成されたものは無常である(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である(ダンマパダ 277)
ダンマバダにも諸行無常の記述が見られ、その中では、明らかに一切の形成作用は無常であると記述されている。 よって諸行無常の諸行は、全ての物や現象、とりわけ客観的なものを意味するのではなく、この心に現れた「形成されたもの」を意味する。

諸行無常は矛盾しない

諸行無常であるならば、諸行無常すら諸行無常なのではないか?
いや、諸行無常は矛盾しない。
諸行無常は理であり、対象が「諸々の形成されたもの」の変化を示すものだからだ。
諸行について、意味がわからずに「すべてのもの」を示すということを言う人が多いが、すべてのものを示すのであれば、仏教用語のセオリーから言って、それは「色」になるはずだ。
諸行無常を解釈する時に、諸行を「物」として考えてはならない。受想行識という概念から諸行の行を捉えなければならない。そうすると、行は、「形成作用」や「形成されたもの」を意味する。

そういうわけで、一切の形成されたものは常に変化する、というのが諸行無常であり、諸行無常自体は理であるため、形成されたものではなく対象とならない、よって矛盾はしない。

諸行無常

五取蘊の取は執著

五取蘊の取は執著である。 五蘊は色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊である。 五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦 五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦

パスカル パスカルの賭け

パスカルの賭けというものは、確率論的というのは少しおもしろみがあるものの、出だしが妄想というより社会的洗脳からはじまっていますから、あれほどの才能があるにもかかわらず、残念な結果になっています。類例としてあげられる親鸞は、もっとお粗末です。

無意味

無意味な行動や無意味なものについて、「そんな無意味なもの」とレッテルを貼って馬鹿にするのはやめておいたほうがいいかもしれません。

たいていのことに意味付けを行うことはできますが、「意味がある」を根拠に何かと相対化して、相手を「子供扱いする」のは変な話です。無意味

哲学

philosophy 哲学
「哲学」と「思想」を峻別するという哲学上の立場がある。
哲学は学問として「よい思考」をもたらす方法を考えるのに対し、思想はさまざまな物事が「かくあれかし」とする主張とする。他の学問と哲学を区別する特徴となるような独自の方法論が哲学にあるかはなかなか難しい。
        

プロフィール

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Nietzsche memo
性別:
非公開
自己紹介:
Nietzsche
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
ドイツの古典文献学者、哲学者。
ニーチェ自身は「心理学者」を自称。

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