フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
ルサンチマン (ressentiment)とは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりします。キェルケゴール発端ですが、ニーチェも「道徳の系譜」以降さんざん使う言葉です。ニーチェの場合は、さんざん使うというより、彼としては考えの一種の主軸になっています。ルサンチマン(ressentiment) 「善」の基礎にある怨恨感情をルサンチマンという。「ルサンチマン」はフランス語で、弱者が強者に対してもつ「恨みや妬み」といった感情を示すと説明されるが、ルサンチマンは感情そのものではない。
一般的な定義である「弱者による強者に対する怨恨」という面をそのまま読んでしまう前に、弱者とは何なのか、強者とは何なのか、という点について触れていきましょう。そして、その後に「怨恨」も考えてみましょう。
多くの人間の気質の不正なところや突飛なところ、彼らのだらしなさや節制のなさなどは、その祖先が犯した無数の論理的な不正確や、不徹底、また性急な推論などの究極の結果である。 曙光 247 前半
機会を避けること、規則を衝動に植えこむこと、衝動に対する飽満と嫌悪を生み出すこと。苦悩を与える思想の連想を完成すること。次に力の転位。最後に全身的な衰弱と虚脱。― これが六つの方法である。 曙光 109
パスカルの賭けというものは、確率論的というのは少しおもしろみがあるものの、出だしが妄想というより社会的洗脳からはじまっていますから、あれほどの才能があるにもかかわらず、残念な結果になっています。類例としてあげられる親鸞は、もっとお粗末です。
人間や現象に価値があるとかないとかいう議論がまずなされ、そこで無理矢理にも価値を見出そうとします。しかしながらどこか何かに無理がある、そのことに気づいてがっくり来るというのがよく聞くような話ですね。その前に価値とは何か、そして無価値の「無」は有の対義語ではないかもしれないということを考えてみましょう。何とかして見出したい「価値」とはおよそ効用や期待であって、とどのつまりは感情的なものです。そして、価値は相対的な価値と絶対的な価値に分類されそうになりますが、絶対的な価値は証明の必要がないので議論の対象にもなりません。ということで、価値がある/ないというのは相対的価値になります。
すべてのモノや現象に価値が云々、それ自体が本来はナンセンスな話です。つまり議論が成り立ち得ないはずなのです。あるのかないのかというのは認識の問題なので、ここでははっきり述べませんが、「ただ、ある」という何の属性も持っていない対象がそこに現象として起こっている、それに属性をつけた時点で価値の議論が始まるということになります。結果的に「価値があるんだから攻撃しないでね」というような心理面でのお話で、少し哲学とは異なる分野になります。
思想家という人種はなぜ、思想家用語というか変な言葉を使うのでしょうか。「かくあるべし」「かく語りき」などですね。「こうあるべき」「こう言った」で十分なところを、なぜかそういう言い回しをする人が未だにいます。
思想家の盲目 曙光 426
現在思想家が何人集まろうが、それが思想である以上、思想の領域をでることはないでしょう。ある思想をもつと、その思想に執着してしまいます。かといって闇雲にわけもわからず全て間違いだとするのは、また変な話です。
どれほどの力が現在思想家の中に集まらねばならぬか 曙光 43
「何にもとらわれないので、奇抜」と、自称するのはいいですが、「かぶる事もあるかも知れない、でも、別にそれでもいいんだ」というのが自由というか、本 来の「何にもとらわれない」ではないでしょうか。100%オリジナルでないといけない、というか、そんなものが生み出せると思っているのが、既に自由では ないというようなことになりましょうか。
自由行為家と自由思想家 曙光 20
この利益のために現在実践的な生活を営むように予定された極めて多くの人々が、その顔に汗し、しかもずいぶん頭を悩まし、呪いながら、学問への道を歩んでいるが、しかしそのような労苦は思想家や学問研究者の群の責任では全くない。それは「自家製の苦労」なのである。
曙光 42
プロフィール
最新記事
ニーチェ