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Nietzsche ニーチェの軌跡

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

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道徳の系譜 ルサンチマン

ニーチェによれば、ルサンチマンを保持する者とは

「本来の反動、行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」

ルサンチマンを持つ人は非常に受け身で、実際の行動をとるには社会的な制約があり、自身の無力を痛感している人。そういう状態にあっては誰であっても、ルサンチマンを持つ状態に陥る。
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「信仰」という自己欺瞞

世間ではほとんどが信仰を持っています。そしてその信仰の正しさを主張することで苦しんでいるというのが実情でしょう。誰に何を訴えかけているのでしょうか。 信仰という言葉を見るとすぐに「それは宗教的な部類に入るから自分には無関係だ」という反応が起こるでしょう。たまに無宗派だと言っても、「それは無宗派という宗教だ」という人もいますから、やってられませんね。そんなにカテゴライズしたいのでしょうか。「信仰」という自己欺瞞 陶酔への信仰

ルサンチマン

ルサンチマン(ressentiment)

被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみ、怨恨を内心にため込んでいること。このうえに成り立つのが愛・同情といった奴隷道徳。全ての高貴な道徳が、自己自身への勝ち誇った肯定から生じて来るのに対して、奴隷道徳は始めから外部、他者、自己でないものに対して否を言う。そしてこの否が奴隷たちのせめてもの創造的行為
ルサンチマン (ressentiment)とは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりします。キェルケゴール発端ですが、ニーチェも「道徳の系譜」以降さんざん使う言葉です。ニーチェの場合は、さんざん使うというより、彼としては考えの一種の主軸になっています。
一般的な定義である「弱者による強者に対する怨恨」という面をそのまま読んでしまう前に、弱者とは何なのか、強者とは何なのか、という点について触れていきましょう。そして、その後に「怨恨」も考えてみましょう。
ルサンチマン(ressentiment) 「善」の基礎にある怨恨感情をルサンチマンという。「ルサンチマン」はフランス語で、弱者が強者に対してもつ「恨みや妬み」といった感情を示すと説明されるが、ルサンチマンは感情そのものではない。
奴隷と対になる君主側の「君主道徳」と相対化した上での奴隷道徳が「弱者」の側にある。
君主に対して抱く「感情」がルサンチマンであると説明されるが、感情ではなく思考上の解釈変更がルサンチマンである。
奴隷道徳の前提の上で、どう自尊心を維持するかというような側面がルサンチマンである。

悪い気質の由来

    多くの人間の気質の不正なところや突飛なところ、彼らのだらしなさや節制のなさなどは、その祖先が犯した無数の論理的な不正確や、不徹底、また性急な推論などの究極の結果である。 曙光 247 前半

論理的な不正確というものは、それがどう不正確なのか知るには、通常は正確な論理というものが必要になります

自制と節制とその究極の動機

自制と節制とその究極の動機

機会を避けること、規則を衝動に植えこむこと、衝動に対する飽満と嫌悪を生み出すこと。苦悩を与える思想の連想を完成すること。次に力の転位。最後に全身的な衰弱と虚脱。― これが六つの方法である。 曙光 109

パスカル パスカルの賭け

パスカルの賭けというものは、確率論的というのは少しおもしろみがあるものの、出だしが妄想というより社会的洗脳からはじまっていますから、あれほどの才能があるにもかかわらず、残念な結果になっています。類例としてあげられる親鸞は、もっとお粗末です。

ニヒリズム

ニヒリズム、虚無主義は、この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場。
人間や現象に価値があるとかないとかいう議論がまずなされ、そこで無理矢理にも価値を見出そうとします。しかしながらどこか何かに無理がある、そのことに気づいてがっくり来るというのがよく聞くような話ですね。その前に価値とは何か、そして無価値の「無」は有の対義語ではないかもしれないということを考えてみましょう。何とかして見出したい「価値」とはおよそ効用や期待であって、とどのつまりは感情的なものです。そして、価値は相対的な価値と絶対的な価値に分類されそうになりますが、絶対的な価値は証明の必要がないので議論の対象にもなりません。ということで、価値がある/ないというのは相対的価値になります。

消極的・受動的ニヒリズム
    何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度。

積極的・能動的ニヒリズム
    すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度。

ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定
し、永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。
すべてのモノや現象に価値が云々、それ自体が本来はナンセンスな話です。つまり議論が成り立ち得ないはずなのです。あるのかないのかというのは認識の問題なので、ここでははっきり述べませんが、「ただ、ある」という何の属性も持っていない対象がそこに現象として起こっている、それに属性をつけた時点で価値の議論が始まるということになります。結果的に「価値があるんだから攻撃しないでね」というような心理面でのお話で、少し哲学とは異なる分野になります。

思想家

思想家という人種はなぜ、思想家用語というか変な言葉を使うのでしょうか。「かくあるべし」「かく語りき」などですね。「こうあるべき」「こう言った」で十分なところを、なぜかそういう言い回しをする人が未だにいます。

思想家の盲目 曙光 426


現在思想家が何人集まろうが、それが思想である以上、思想の領域をでることはないでしょう。ある思想をもつと、その思想に執着してしまいます。かといって闇雲にわけもわからず全て間違いだとするのは、また変な話です。

どれほどの力が現在思想家の中に集まらねばならぬか 曙光 43

「何にもとらわれないので、奇抜」と、自称するのはいいですが、「かぶる事もあるかも知れない、でも、別にそれでもいいんだ」というのが自由というか、本 来の「何にもとらわれない」ではないでしょうか。100%オリジナルでないといけない、というか、そんなものが生み出せると思っているのが、既に自由では ないというようなことになりましょうか。

自由行為家と自由思想家 曙光 20


この利益のために現在実践的な生活を営むように予定された極めて多くの人々が、その顔に汗し、しかもずいぶん頭を悩まし、呪いながら、学問への道を歩んでいるが、しかしそのような労苦は思想家や学問研究者の群の責任では全くない。それは「自家製の苦労」なのである。

曙光 42

倫理の否定者 道徳学者

自然の法則をはじめて見ること、しかも全面的に見ること、それゆえ指示することは(例 略)、そのような法則を説明することとは何か違ったことであり、違った精神の持ち主の仕事である。 二種類の道徳学者 曙光 428

「倫理を否定する」― このことは第一に、人間の申し立てる倫理的な動機が実際に彼らを行為に駆り立てたのだ、ということの否定を意味しうる。倫理の否定者には二種類ある 曙光 103

ツァラトゥストラはこう言った

山中で10年もの歳月を過ごしたツァラトゥストラが十分に知ることができたと悟り、人々に説教を行うために山を降りようとする。彼は道中で出会った隠遁者との対話で神の死を再認識し、街中で綱渡りを見るために集まった民衆に語りかけ、超人の思想を教えようとするが失敗した。綱渡りの大道芸は失敗して転落事故が起きる。ツァラトゥストラはその遺体を背負って埋葬しようとし、また弟子を求めるために説教を継続することが決意される。ここまでが本書の序章であり、以後に4部構成にわたってツァラトゥストラの物語が描かれている。
ニーチェの初期の思想におけるディオニュソス概念がツァラトゥストラに結実したこと、また永劫回帰の思想がはじめて本格的に展開された。本来あるべき態度とは隣人に対する愛ではなく、未来に出現する者への遠人愛であると説く。そのことによってニーチェは伝統的な価値観を否定するだけでなく超人の思想を生み出すための方向性を示している。
永劫回帰と積極的ニヒリズムについての書。神の死、超人、永劫回帰の思想が論じられている。

プロフィール

HN:
Nietzsche memo
性別:
非公開
自己紹介:
Nietzsche
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
ドイツの古典文献学者、哲学者。
ニーチェ自身は「心理学者」を自称。

哲学、ニーチェ

ニーチェ

ドイツの古典文献学者、哲学者 悲劇的認識、デカダンス、神は死んだ、アンチクリスト、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志