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Nietzsche ニーチェの軌跡

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

ニーチェの最後

フリードリヒ・ニーチェは19世紀後半のドイツを代表する哲学者であり、その思想は近代哲学や文学、心理学に大きな影響を与えた。しかし彼の生涯の最後は、深い精神的苦悩と孤独に彩られ、波乱に満ちたものであった。
ニーチェの精神の崩壊は1889年に突然訪れる。イタリアのトリノで、彼は街頭で精神的な異常をきたし、発作的に自己崩壊を示した。この出来事は「精神崩壊」と呼ばれ、生涯にわたる彼の創造的活動の終焉を意味した。その後、ニーチェは精神病院に入れられ、ほぼ11年間にわたり昏睡状態に近い生活を送ることとなる。
精神崩壊の正確な原因については諸説あるが、晩年の過労や遺伝的要素、梅毒感染説が長く指摘されてきた。特に梅毒による神経症状が彼の認知機能を著しく損なったという説は有力であるが、近年の研究では別の神経疾患や複合的な要因も考慮されている。いずれにせよ、彼の晩年は思考能力の著しい低下により、自身の著作活動を続けることは不可能となった。
 
ニーチェの最後の時期は、母親と妹の介護のもとで過ごされた。妹のエリザベートは、ニーチェの遺稿を管理し、彼の死後、著作の出版や編集を主導した。しかし彼女はニーチェの思想を自らの政治的イデオロギーに都合よく解釈し、改変したとの批判も多い。特にナチズムに利用された経緯があり、ニーチェの本来の思想とは異なる文脈で語られることが多かった。1889年から1900年1月にかけての約11年間、ニーチェは言葉をほとんど発することなく静かな日々を送り、1900年8月25日に亡くなった。享年55歳という比較的若い死であったが、彼の哲学は死後に世界中で評価され続けている。
ニーチェの最後は、精神の激しい波乱とその後の静寂に象徴される。彼の思想が提起した「超人」や「神の死」といった概念は、彼自身の苦悩と孤独の裏返しとも言える。精神崩壊という悲劇的な終焉を迎えながらも、その思想は時代を超えて人々の精神に問いを投げかけ続けているのである。
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ルサンチマン

ルサンチマン(ressentiment)



被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみ、怨恨を内心にため込んでいること。このうえに成り立つのが愛・同情といった奴隷道徳。全ての高貴な道徳が、自己自身への勝ち誇った肯定から生じて来るのに対して、奴隷道徳は始めから外部、他者、自己でないものに対して否を言う。そしてこの否が奴隷たちのせめてもの創造的行為
ルサンチマン (ressentiment)とは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりします。キェルケゴール発端ですが、ニーチェも「道徳の系譜」以降さんざん使う言葉です。ニーチェの場合は、さんざん使うというより、彼としては考えの一種の主軸になっています。
一般的な定義である「弱者による強者に対する怨恨」という面をそのまま読んでしまう前に、弱者とは何なのか、強者とは何なのか、という点について触れていきましょう。そして、その後に「怨恨」も考えてみましょう。
ルサンチマン(ressentiment) 「善」の基礎にある怨恨感情をルサンチマンという。「ルサンチマン」はフランス語で、弱者が強者に対してもつ「恨みや妬み」といった感情を示すと説明されるが、ルサンチマンは感情そのものではない。
奴隷と対になる君主側の「君主道徳」と相対化した上での奴隷道徳が「弱者」の側にある。
君主に対して抱く「感情」がルサンチマンであると説明されるが、感情ではなく思考上の解釈変更がルサンチマンである。
奴隷道徳の前提の上で、どう自尊心を維持するかというような側面がルサンチマンである。

ルサンチマンとは、ドイツ語の「Ressentiment」に由来し、主に哲学者ニーチェによって分析された概念である。これは単なる嫉妬や怒りとは異なり、抑圧された不満や敵意が内面に蓄積され、それが外部の対象に向けられる複雑な心理状態を指す。ルサンチマンは特に弱者が強者に対して抱く感情として説明され、社会的、倫理的な文脈で深く議論されてきた。
 
ニーチェはルサンチマンを「奴隷道徳」の根幹と位置づけた。彼によれば、力や権威を持つ「貴族的な」価値観に対し、直接的に対抗できない弱者は、自らの無力さを正当化するために「善悪」の価値観を反転させる。この過程で、弱者は自身の無力を「善」とし、強者の力や成功を「悪」と規定し、心の中で敵意を燃やすが、それを直接的に表現できないため、内向きの憎悪となって蓄積される。これがルサンチマンである。
 
ルサンチマンは、個人の心理だけでなく、社会構造や文化の形成にも影響を与える。例えば、社会的抑圧や不平等により自己肯定感を持てない集団が、その不満を共有し、既存の価値体系を否定しながら新たな価値観を構築する場合がある。これにより「被害者意識」や「復讐願望」が集合的に強化され、社会的対立や分断の温床となりうる。
 
また、ルサンチマンは政治的な文脈でも利用されやすい。指導者や運動が、弱者や抑圧されたとされる人々のルサンチマンを扇動し、不満を集めて支持を得る例は歴史的に多く見られる。だが、この戦略はしばしば建設的な対話や解決を阻み、憎悪や排除の連鎖を助長するリスクを孕んでいる。
 
心理学的には、ルサンチマンは自己肯定の不足と強い自己防衛の欲求が絡み合った状態ともいえる。対象に対する直接的な行動が困難なため、感情は内面化され、自己破壊的な感情や他者への攻撃性に転じることがある。これが精神的健康に悪影響を及ぼし、社会的孤立や対人関係の悪化を招く場合もある。
 
ニーチェはこのルサンチマンを乗り越えることを「超人」の条件の一つとした。自らの弱さや怒りに囚われることなく、自らの価値を創造し、他者の評価に依存しない精神的自由を獲得することが重要であると説いた。ルサンチマンに支配されることは、自己欺瞞や受動性を強め、真の力を発揮する妨げとなるためである。
 
現代においても、ルサンチマンは個人や集団の心理状態を理解する上で重要な概念である。社会的不満や文化的対立、政治的ポピュリズムの背景にはしばしばルサンチマンの存在が指摘される。これを認識し、健全な自己肯定と他者理解を促すことが、より成熟した社会形成の鍵となるであろう。

永劫回帰と輪廻転生

永劫回帰と輪廻転生は全く別の概念である。



永劫回帰は、「今のこの瞬間を何度でも繰り返すとすればどうあるべきか」という思考実験で輪廻思想とは全く異なるものになる。

ニーチェと永劫回帰 永劫回帰と輪廻転生は、いずれも「時間の循環」や「生命の再生」をテーマとする思想であるが、その起源や哲学的背景、そして意味合いには大きな違いが存在する。両者は文化や宗教を超えて人類の根源的な問いに関わる概念であり、比較することで各々の思想の独自性と共通性を理解することができる。 まず永劫回帰とは、西洋哲学、とくにニーチェによって強調された思想である。永劫回帰は「すべての出来事や存在が永遠に繰り返される」という概念であり、宇宙の歴史や人生が無限に同じパターンで再生するとされる。この思想は決定論的かつ時間の非線形性を示唆し、個々の瞬間が無限に価値を持つという哲学的な挑戦を孕んでいる。ニーチェは永劫回帰を「最高の肯定」として提示し、人生の一瞬一瞬を全力で生きることの意義を説いた。 一方、輪廻転生はインドの宗教哲学、特にヒンドゥー教や仏教における中心的な教義である。輪廻転生は「魂や意識が死後も消滅せず、別の肉体や存在として生まれ変わる」という思想である。これは業(カルマ)と深く結びついており、過去の行為によって未来の生まれ変わりの形が決定されるとされる。輪廻転生は魂の浄化や悟り、解脱を目指す精神的過程の枠組みであり、時間は循環的であるが目的志向的な性格を帯びている。 このように、永劫回帰が宇宙と時間の無限の繰り返しを描くのに対し、輪廻転生は個々の魂の旅路として生まれ変わりを説明している。永劫回帰は、哲学的・存在論的な問題提起であり、人間の自由意志や価値の根源に問いを投げかける。輪廻転生は宗教的・倫理的な教義であり、善悪や因果応報の法則を通じて生き方を規定する。 永劫回帰は「同じことが何度も起こる」ことを前提とし、それを肯定的に受け入れることで生の力強さを示す。一方、輪廻転生は「魂が輪廻を脱して悟りに至ること」が最終目的であり、輪廻からの解放こそが真の救いとされる点で根本的に異なる。すなわち、永劫回帰は繰り返しの肯定であるのに対し、輪廻転生は循環からの解脱を志向しているのである。 両者はまた、文化的な背景の違いを反映している。永劫回帰は個人の自己肯定と自己超克の哲学であり、西洋の近代思想の文脈で展開された。一方、輪廻転生は共同体や宗教的実践の中で人間存在の意味を探求する東洋の伝統的な思想である。永劫回帰と輪廻転生はいずれも「循環する時間」と「繰り返す存在」という普遍的なテーマを持ちながら、その哲学的意義や実践的な意味において大きく異なる。これらの概念を理解することは、人間の存在や時間、そして生き方に関する多様な視座を広げることに繋がるのである。

虚無主義と超人 ニヒリズム

心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定し、永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。
 何も信じられない事態に絶望し疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。
すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。
虚無主義(ニヒリズム)とは、人生や世界に固有の意味や価値が存在しない、あるいはそれを認識できない状態や思想を指す。これは19世紀後半の西洋思想において特に顕著になり、既存の宗教的・道徳的価値体系が崩壊し、伝統的な価値観がその効力を失った結果として現れた社会的・哲学的現象である。
 
ニーチェは虚無主義を「価値の空白」として捉えた。彼によれば、キリスト教的な神の死に伴い、絶対的な道徳や意味づけの基盤が消失し、人々は無価値の海に投げ出された。この状態は一見絶望的であるが、同時に新たな価値創造の可能性の前兆でもある。虚無主義は古い価値観の終焉を告げるが、そこから逃げるのではなく、正面から受け入れ乗り越えるべき課題であると彼は説いた。
 
その乗り越えの象徴としてニーチェが提唱したのが「超人(Übermensch)」の概念である。超人とは、従来の道徳や価値観に縛られず、自らの意志と創造性によって新たな価値を打ち立てる存在を指す。超人は虚無的な世界の意味の欠如を嘆くのではなく、それを自らの成長と自己実現の機会として肯定的に捉え、自己を超克する者である。
 
虚無主義の問題は、意味や目的を失った結果として人間が絶望や無力感に陥りやすい点にある。これは個人の精神的危機だけでなく、社会の分断や混乱にもつながる。伝統的な価値体系が揺らぐと、人々は虚無的な無関心や退廃、あるいは代替のイデオロギーに依存する危険性を抱えることになる。
 
ニーチェはこの虚無主義の克服を「価値の再評価」と呼び、既存の善悪の枠組みを壊し、個々人が主体的に新たな価値を創造すべきだと主張した。超人はその理想像であり、自律的な意志を持ち、困難や苦悩を力に変え、自身の生を肯定する。これによって虚無主義の絶望を力強い肯定に転換することができる。
 
ただし、超人の概念は単なる自己中心的な成功者像ではない。むしろ深い自己洞察と他者への責任感、世界の意味の根源的な探求を含む高度な精神的成熟を必要とする。虚無主義の危険性に抗い、創造的な生の展開を示す哲学的挑戦なのである。
 
現代においても、虚無主義は依然として根強く存在し、価値の多様化と情報過多の時代において新たな形で顕在化している。超人の思想は、混迷する現代における自己実現や精神的自律の指針として再評価されている。ニーチェのニヒリズムと超人の対比は、意味の喪失と創造の永遠の問題を考える上で欠かせない哲学的命題である。

ニヒリズム

ニヒリズム、虚無主義は、この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場。


人間や現象に価値があるとかないとかいう議論がまずなされ、そこで無理矢理にも価値を見出そうとします。しかしながらどこか何かに無理がある、そのことに気づいてがっくり来るというのがよく聞くような話ですね。その前に価値とは何か、そして無価値の「無」は有の対義語ではないかもしれないということを考えてみましょう。何とかして見出したい「価値」とはおよそ効用や期待であって、とどのつまりは感情的なものです。そして、価値は相対的な価値と絶対的な価値に分類されそうになりますが、絶対的な価値は証明の必要がないので議論の対象にもなりません。ということで、価値がある/ないというのは相対的価値になります。

消極的・受動的ニヒリズム
    何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度。

積極的・能動的ニヒリズム
    すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度。

ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定
し、永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。
すべてのモノや現象に価値が云々、それ自体が本来はナンセンスな話です。つまり議論が成り立ち得ないはずなのです。あるのかないのかというのは認識の問題なので、ここでははっきり述べませんが、「ただ、ある」という何の属性も持っていない対象がそこに現象として起こっている、それに属性をつけた時点で価値の議論が始まるということになります。結果的に「価値があるんだから攻撃しないでね」というような心理面でのお話で、少し哲学とは異なる分野になります。

ニーチェと永劫回帰

ニーチェと永劫回帰。永劫回帰はドイツ語の「Ewig Wiederkehren」であり、永劫回帰がはっきりと登場するのは「ツァラトゥストラはこう言った」です。これはニーチェがルサンチマンやニヒリズムを脱却するものとして考えた思考実験的概念になります。


永劫回帰(永遠回帰)とは、「この生が何度も何度も繰り返されるとすれば…」ということをもって今の生を肯定する試みであり、ニーチェがルサンチマンやニヒリズムを脱却するものとして考えた思想になります。永劫回帰(永遠回帰)
永劫回帰(永遠回帰)は、生の肯定であり、宇宙において質量が保存され、そして時間が無限であるのならば、いつかは全く同じ状態になるという思考から導き出されています。永劫回帰の観念は、生きてきたこの人生をもう一度、 さらには無限回にわたり繰り返して生きなければならないという言葉から来ています。

同情と共感 「同情の禁止」

ニーチェの有名な言葉で「同情の禁止」という概念がある。「乞食は禁止すべきである。乞食にやるのは癪にさわるし、やらないのも癪にさわるから」というものも有名だ。
同情と共感は似ているが、己の心にどう影響するかが全く違うので、似て非なるものである。同情と共感の違いは「同情は、相手の感情に同化し一緒に感情を味わうこと、共感は、相手の感情を理解すること」である。同情とは、主に「不幸な状況」にある相手の感情に同化することであり、一緒になって負の感情を味わうこと。同情の中には、「苦難に同情できる私は素晴らしい」というようなものもある。共感は、相手の意志や感情を理解することである。


同情と共感

純粋な力への意志

純粋な力への意志。消極的ニヒリズムやルサンチマンを否定し、能動的ニヒリズムをもとに生を肯定ということを支えるのが自然な力への意志、権力への意志と呼ばれるものである。 「超人」と「権力への意志」

積極的ニヒリズムの義務教育解釈

積極的ニヒリズムの義務教育解釈 「すべてが無価値だというのなら、自ら積極的に仮象を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度がいい」ということを、ギムキョな人や体育会系が解釈すると、次のような結果が生じます。 積極的ニヒリズムの義務教育解釈 ただ、まずニーチェのニヒリズム自体が、ひとつの思想であり主義です。

厭世主義とニヒリズム

厭世主義(えんせいしゅぎ)もニヒリズムと似たようなものとして考えられることがあるが、悲観主義と同じように、世の中に対する期待があり、それを諦めたというような縋りの感覚を持つ。

支配者道徳と奴隷道徳とルサンチマン

支配者道徳と奴隷道徳の対比を見るとルサンチマンが見えてくる。キリスト教的奴隷道徳が利他的な弱者を賛美するようになったということが「道徳の系譜」で示され、その思考上の解釈変更としてルサンチマンという概念が出てくる。

「超人」と「権力への意志」

「超人」と「権力への意志」

晩年のニーチェは、永劫回帰という概念を用いて消極的ニヒリズムやルサンチマンを否定し、生を肯定するために、「超人」と「権力への意志」という概念を示した。 超人思想とは、能動的ニヒリズム的に生きる姿といった概念です。「生の肯定」として、永劫回帰の中で「生きること」を肯定して生きるということ。「ツァラトゥストラはこう言った」などで示した。 権力への意志とは、生の本質として、内的条件が外的に適応するというものではなく、それそのものとしてあるものということ。遺稿集のタイトルにもなっているが、力への意志と表現されることもある。
超人思想とは、ニーチェが「ツァラトゥストラはこう言った(Also sprach Zarathustra)」あたりで示した、能動的ニヒリズム的に生きる姿といった概念です。「生の肯定」として、永劫回帰の中で「生きること」を肯定して生きるという感じです。 力への意志(権力への意志,Der Wille zur Macht)とは、生の本質として、内的条件が外的に適応するというものではなく、それそのものとしてあるものという感じです。 超人思想と力への意志(権力への意志)

体系への意志は正直の欠如

体系への意志は正直の欠如である。
私はすべての体系家を信用せず、彼らを避ける。体系への意志は正直の欠如である。 (偶像の黄昏 箴言と矢 26)
学者が新しい概念をすぐに作り、すぐにそれが一般的な概念かのように知れ渡ってしまうようなことがよく起こる。一種の体系化である。 但し書きがつくような新しい分類 そこには把握しないと怖いという恐怖心もあり、また自己顕示欲もある。 抽象性を嫌い、自然を解体し、物事を仔細に把握しないとと不安が拭えないという、雑な人間の気質が垣間見れる。

馬に抱きつく

馬に抱きつく気分も理解できる。

ルサンチマンを持つ状態

ルサンチマンを持つ状態とは、実際の行動をとるには社会的な制約があり、自身の無力を痛感している状態であり、社会的に強者であれば、嫉妬や反感などの感情に主体的に行動することができるため、フラストレーションを克服することができる可能性がある。ルサンチマンを持つ人は非常に受け身かつ無力でフラストレーションを溜めた状態にある。

悲観主義とニヒリズム

ニヒリズムは悲観主義(ペシミズム(pessimism))に近い概念として解説されることがあるが、悲観主義はなにかの期待を持っており、何事も悲観的に考えつつこの世界は悪と悲惨に満ちたものだという感覚を持つ。しかし、一方ニヒリズムは、全ての物事や現象に本質的な価値はないというフラットな感覚である。
悲観主義の裏には人に対する縋り根性がある。

「意志と表象としての世界」の虜に

ニーチェは、ライプツィヒ大学在学中にショーペンハウアーの「意志と表象としての世界(Die Welt als Wille und Vorstellung)」を本屋で購入して、この本の虜になる。

ニーチェとヴァーグナー

ニーチェは学生時代からヴァーグナーに心酔し、1868年にライプツィヒでヴァーグナーとの対面している。しかし、後年ヴァーグナー批判を始め「人間的な、あまりにも人間的な」で決別の意を示した。この「人間的な、あまりにも人間的な」は、ヴァーグナーからも反論を受け、両者は決別し、再会することはなかった。

24歳でバーゼル大学古典文献学の教授に

ニーチェは24歳でバーゼル大学古典文献学の教授になった。この時、教員資格も博士号も取得していなかった。ニーチェは哲学を希望していたが結局古代ギリシアに関する古典文献学が専門となる。

リッチュルのもと文献学を修得

ニーチェは、ボン大学でフリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュルのもと文献学を修得。

バーゼル大学教授だったニーチェ

1869年のニーチェは24歳で、博士号も教員資格も無いまま、リッチュルの推薦によりバーゼル大学から古典文献学の教授となった。

ニーチェは哲学の担当を希望したが受け入れられず、古代ギリシアに関する古典文献学を専門とする。研究者としては、「古代の詩における基本単位は音節の長さだけであり、近代のようなアクセントに基づく基本単位とは異なる」ということを発見した。

1872年、ニーチェは第一作「音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生」
再版以降は「悲劇の誕生」と改題を出版。

道徳の系譜 ルサンチマン

ニーチェによれば、ルサンチマンを保持する者とは

「本来の反動、行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」

ルサンチマンを持つ人は非常に受け身で、実際の行動をとるには社会的な制約があり、自身の無力を痛感している人。そういう状態にあっては誰であっても、ルサンチマンを持つ状態に陥る。

ツァラトゥストラはこう言った

山中で10年もの歳月を過ごしたツァラトゥストラが十分に知ることができたと悟り、人々に説教を行うために山を降りようとする。彼は道中で出会った隠遁者との対話で神の死を再認識し、街中で綱渡りを見るために集まった民衆に語りかけ、超人の思想を教えようとするが失敗した。綱渡りの大道芸は失敗して転落事故が起きる。ツァラトゥストラはその遺体を背負って埋葬しようとし、また弟子を求めるために説教を継続することが決意される。ここまでが本書の序章であり、以後に4部構成にわたってツァラトゥストラの物語が描かれている。
ニーチェの初期の思想におけるディオニュソス概念がツァラトゥストラに結実したこと、また永劫回帰の思想がはじめて本格的に展開された。本来あるべき態度とは隣人に対する愛ではなく、未来に出現する者への遠人愛であると説く。そのことによってニーチェは伝統的な価値観を否定するだけでなく超人の思想を生み出すための方向性を示している。
永劫回帰と積極的ニヒリズムについての書。神の死、超人、永劫回帰の思想が論じられている。

善悪の彼岸

ニーチェはこの『善悪の彼岸』で過去の哲学者たちが道徳性について考察するときに、批判的感覚が欠けていた疑いがあることと、とりわけキリスト教の諸前提を盲目的に受け入れていたことを非難している。

悦ばしき知識

ニーチェは有名な「神は死んだ」と伝統的宗教からの自然主義的・美学的離別を決定づけ、永劫回帰説を本書で提示する。これは、世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である。これは、来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にすることを強いるキリスト教的世界観と真っ向から対立する。
        
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プロフィール

HN:
Nietzsche memo
性別:
非公開
自己紹介:
Nietzsche
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
ドイツの古典文献学者、哲学者。
ニーチェ自身は「心理学者」を自称。

哲学、ニーチェ