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Nietzsche ニーチェの軌跡

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

ニーチェ著作概説

ニーチェの哲学は一冊の本だけでは決して理解できないとよく言われます。実際、彼の著作群は初期・中期・後期に大きく分けられ、スタイルも対象も大きく異なります。初期にはワーグナーやギリシア悲劇に関心を寄せ、中期には冷徹なアフォリズムの形式で文化批判を展開し、後期には「超人」「永劫回帰」といった独自の核心概念を提示します。ここでは代表的な著作を時系列に沿ってすべて紹介していきましょう。
 
『悲劇の誕生』(1872)
 
処女作にあたる本で、ニーチェはギリシア悲劇を「アポロン的」と「ディオニュソス的」の二原理から解釈しました。アポロン的とは秩序や形の世界、ディオニュソス的とは陶酔と破壊の原理です。ソクラテス以降、西洋哲学は理性偏重となり、この二元の均衡が失われたとする彼の文化批判の出発点がここにあります。ワーグナーを理想化し、芸術に人間の救済を見ていた初期のニーチェの熱情が詰まっています。
 
『反時代的考察』(1873–1876)
 
四編からなる論集で、当時のドイツ文化に対する痛烈な批判が展開されます。シュトラウス神学者、歴史学風潮、ショーペンハウアー、ワーグナーといった対象を通じて、ニーチェは「時代の空気に流されない精神」の必要を説きます。ここではまだ文化評論家としての顔が前面に出ていますが、すでに「大衆化した文化」への嫌悪は強く、後の思想につながる基調が芽生えています。
 
『人間的な、あまりに人間的な』(1878–1880)
 
この時期からスタイルは一変します。アフォリズム形式による冷静な観察が中心で、芸術的な高揚感は影を潜め、心理学的な洞察が目立ちます。ショーペンハウアーやワーグナーから決別した「啓蒙主義的」なニーチェの姿がここに現れます。宗教、道徳、芸術の裏に潜む「人間的」動機を暴き出すことで、従来の価値を解体しようとしたのです。
 
『曙光』(1881)
 
「道徳の偏見」に挑戦した著作で、善悪の価値判断を相対化し、人間の行動を本能や力への欲求から説明しようとします。まだ「ニヒリズム」という言葉を明確に打ち出してはいませんが、既存の道徳が持つ虚構性を徹底的にえぐる姿勢はここで確立されます。
 
『悦ばしき知識』(1882, 第2版1887)
 
有名な「神は死んだ」という宣言が収録された著作です。ここからニーチェ思想の核心が立ち現れます。伝統的価値の崩壊とその後に訪れる虚無、それをどう乗り越えるのかという問いが鮮烈に提示されます。また後に展開される「永劫回帰」の思想が初めて形を取ったのもこの本です。
 
『ツァラトゥストラはこう語った』(1883–1885)
 
詩的な文体で書かれた四部作であり、ニーチェの思想の中心を成す著作です。ツァラトゥストラという預言者的人物を通じて「超人」「永劫回帰」「権力への意志」といった概念が説かれます。難解かつ象徴的であり、文学作品としての性格も強いため、解釈は多様ですが、ニーチェ自身が最も愛着を持っていた著作でもあります。

『善悪の彼岸』(1886)
 
『ツァラトゥストラ』の神秘的表現を離れ、より論理的・批判的に展開したのが本書です。形而上学や道徳の前提を徹底して問い直し、「哲学者とは誰か」を新しい形で提示します。善と悪という対立的枠組みそのものを乗り越える視座を開くのが目的でした。
 
『道徳の系譜』(1887)
 
『善悪の彼岸』を補う具体的な分析として書かれたのがこの本です。三論文から成り、「罪」「良心」「禁欲」などの道徳概念が歴史的にどう形成されたかを辿ります。キリスト教道徳が「弱者の怨恨」から生まれたとする見解は有名で、現代の道徳哲学や社会学にも大きな影響を与えました。
 
『偶像の黄昏』(1888)
 
短い断章的な形式で書かれ、ニーチェの思想の総括的な要約ともいえる一冊です。ソクラテス批判、キリスト教批判、現代文化批判が簡潔に展開されます。とりわけ「哲学者ソクラテスの没落」や「道徳の偶像破壊」といった部分は、ニーチェの破壊的情熱が最も鋭く表現された箇所です。
 
『アンチクリスト』(1888)
 
徹底したキリスト教批判の書。キリスト教は生命を否定し、弱者の価値観を絶対化したとする激烈な主張が展開されます。ここでの調子は極めて過激で、同時代の読者にとってはほとんど耐え難いものでした。

『この人を見よ』(1888)
 
自伝的な性格を持つ著作で、各著作について振り返りながら自分を「運命」として語る自己神話的な書き方がされています。「なぜ私はこんなに賢いのか」など挑発的な章題は有名で、狂気に近づきつつあった晩年のニーチェの姿を映しています。
 
『権力への意志』(未完、遺稿編集)
 
ニーチェが生前にまとめた体系的著作ではなく、遺稿を編集して刊行されたものです。中心概念「権力への意志」を明確に打ち出したテキストとして広く読まれますが、編集の恣意性が強いため、その解釈には注意が必要です。
 
ニーチェの著作群は、一冊ごとに全く違う顔を見せながら、全体として「西洋形而上学と道徳の批判」「新しい価値の創出」という大きな運動に収束していきます。初期の芸術論から出発し、中期の心理学的批判を経て、後期には「超人」や「永劫回帰」という未来志向の思想にたどり着く。この流れはニーチェが時代そのものと格闘し、精神的に消耗しながらも切り拓いた道でした。彼の著作は断片的で難解ですが、それぞれを繋ぎ合わせると「神の死以後の人間はいかに生きるべきか」という一貫した問いが浮かび上がってきます。
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ニーチェの最後

フリードリヒ・ニーチェは19世紀後半のドイツを代表する哲学者であり、その思想は近代哲学や文学、心理学に大きな影響を与えた。しかし彼の生涯の最後は、深い精神的苦悩と孤独に彩られ、波乱に満ちたものであった。
ニーチェの精神の崩壊は1889年に突然訪れる。イタリアのトリノで、彼は街頭で精神的な異常をきたし、発作的に自己崩壊を示した。この出来事は「精神崩壊」と呼ばれ、生涯にわたる彼の創造的活動の終焉を意味した。その後、ニーチェは精神病院に入れられ、ほぼ11年間にわたり昏睡状態に近い生活を送ることとなる。
精神崩壊の正確な原因については諸説あるが、晩年の過労や遺伝的要素、梅毒感染説が長く指摘されてきた。特に梅毒による神経症状が彼の認知機能を著しく損なったという説は有力であるが、近年の研究では別の神経疾患や複合的な要因も考慮されている。いずれにせよ、彼の晩年は思考能力の著しい低下により、自身の著作活動を続けることは不可能となった。
 
ニーチェの最後の時期は、母親と妹の介護のもとで過ごされた。妹のエリザベートは、ニーチェの遺稿を管理し、彼の死後、著作の出版や編集を主導した。しかし彼女はニーチェの思想を自らの政治的イデオロギーに都合よく解釈し、改変したとの批判も多い。特にナチズムに利用された経緯があり、ニーチェの本来の思想とは異なる文脈で語られることが多かった。1889年から1900年1月にかけての約11年間、ニーチェは言葉をほとんど発することなく静かな日々を送り、1900年8月25日に亡くなった。享年55歳という比較的若い死であったが、彼の哲学は死後に世界中で評価され続けている。
ニーチェの最後は、精神の激しい波乱とその後の静寂に象徴される。彼の思想が提起した「超人」や「神の死」といった概念は、彼自身の苦悩と孤独の裏返しとも言える。精神崩壊という悲劇的な終焉を迎えながらも、その思想は時代を超えて人々の精神に問いを投げかけ続けているのである。

ルサンチマン

ルサンチマン(ressentiment)



被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみ、怨恨を内心にため込んでいること。このうえに成り立つのが愛・同情といった奴隷道徳。全ての高貴な道徳が、自己自身への勝ち誇った肯定から生じて来るのに対して、奴隷道徳は始めから外部、他者、自己でないものに対して否を言う。そしてこの否が奴隷たちのせめてもの創造的行為
ルサンチマン (ressentiment)とは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりします。キェルケゴール発端ですが、ニーチェも「道徳の系譜」以降さんざん使う言葉です。ニーチェの場合は、さんざん使うというより、彼としては考えの一種の主軸になっています。
一般的な定義である「弱者による強者に対する怨恨」という面をそのまま読んでしまう前に、弱者とは何なのか、強者とは何なのか、という点について触れていきましょう。そして、その後に「怨恨」も考えてみましょう。
ルサンチマン(ressentiment) 「善」の基礎にある怨恨感情をルサンチマンという。「ルサンチマン」はフランス語で、弱者が強者に対してもつ「恨みや妬み」といった感情を示すと説明されるが、ルサンチマンは感情そのものではない。
奴隷と対になる君主側の「君主道徳」と相対化した上での奴隷道徳が「弱者」の側にある。
君主に対して抱く「感情」がルサンチマンであると説明されるが、感情ではなく思考上の解釈変更がルサンチマンである。
奴隷道徳の前提の上で、どう自尊心を維持するかというような側面がルサンチマンである。

ルサンチマンとは、ドイツ語の「Ressentiment」に由来し、主に哲学者ニーチェによって分析された概念である。これは単なる嫉妬や怒りとは異なり、抑圧された不満や敵意が内面に蓄積され、それが外部の対象に向けられる複雑な心理状態を指す。ルサンチマンは特に弱者が強者に対して抱く感情として説明され、社会的、倫理的な文脈で深く議論されてきた。
 
ニーチェはルサンチマンを「奴隷道徳」の根幹と位置づけた。彼によれば、力や権威を持つ「貴族的な」価値観に対し、直接的に対抗できない弱者は、自らの無力さを正当化するために「善悪」の価値観を反転させる。この過程で、弱者は自身の無力を「善」とし、強者の力や成功を「悪」と規定し、心の中で敵意を燃やすが、それを直接的に表現できないため、内向きの憎悪となって蓄積される。これがルサンチマンである。
 
ルサンチマンは、個人の心理だけでなく、社会構造や文化の形成にも影響を与える。例えば、社会的抑圧や不平等により自己肯定感を持てない集団が、その不満を共有し、既存の価値体系を否定しながら新たな価値観を構築する場合がある。これにより「被害者意識」や「復讐願望」が集合的に強化され、社会的対立や分断の温床となりうる。
 
また、ルサンチマンは政治的な文脈でも利用されやすい。指導者や運動が、弱者や抑圧されたとされる人々のルサンチマンを扇動し、不満を集めて支持を得る例は歴史的に多く見られる。だが、この戦略はしばしば建設的な対話や解決を阻み、憎悪や排除の連鎖を助長するリスクを孕んでいる。
 
心理学的には、ルサンチマンは自己肯定の不足と強い自己防衛の欲求が絡み合った状態ともいえる。対象に対する直接的な行動が困難なため、感情は内面化され、自己破壊的な感情や他者への攻撃性に転じることがある。これが精神的健康に悪影響を及ぼし、社会的孤立や対人関係の悪化を招く場合もある。
 
ニーチェはこのルサンチマンを乗り越えることを「超人」の条件の一つとした。自らの弱さや怒りに囚われることなく、自らの価値を創造し、他者の評価に依存しない精神的自由を獲得することが重要であると説いた。ルサンチマンに支配されることは、自己欺瞞や受動性を強め、真の力を発揮する妨げとなるためである。
 
現代においても、ルサンチマンは個人や集団の心理状態を理解する上で重要な概念である。社会的不満や文化的対立、政治的ポピュリズムの背景にはしばしばルサンチマンの存在が指摘される。これを認識し、健全な自己肯定と他者理解を促すことが、より成熟した社会形成の鍵となるであろう。

永劫回帰と輪廻転生

永劫回帰と輪廻転生は全く別の概念である。



永劫回帰は、「今のこの瞬間を何度でも繰り返すとすればどうあるべきか」という思考実験で輪廻思想とは全く異なるものになる。

ニーチェと永劫回帰 永劫回帰と輪廻転生は、いずれも「時間の循環」や「生命の再生」をテーマとする思想であるが、その起源や哲学的背景、そして意味合いには大きな違いが存在する。両者は文化や宗教を超えて人類の根源的な問いに関わる概念であり、比較することで各々の思想の独自性と共通性を理解することができる。 まず永劫回帰とは、西洋哲学、とくにニーチェによって強調された思想である。永劫回帰は「すべての出来事や存在が永遠に繰り返される」という概念であり、宇宙の歴史や人生が無限に同じパターンで再生するとされる。この思想は決定論的かつ時間の非線形性を示唆し、個々の瞬間が無限に価値を持つという哲学的な挑戦を孕んでいる。ニーチェは永劫回帰を「最高の肯定」として提示し、人生の一瞬一瞬を全力で生きることの意義を説いた。 一方、輪廻転生はインドの宗教哲学、特にヒンドゥー教や仏教における中心的な教義である。輪廻転生は「魂や意識が死後も消滅せず、別の肉体や存在として生まれ変わる」という思想である。これは業(カルマ)と深く結びついており、過去の行為によって未来の生まれ変わりの形が決定されるとされる。輪廻転生は魂の浄化や悟り、解脱を目指す精神的過程の枠組みであり、時間は循環的であるが目的志向的な性格を帯びている。 このように、永劫回帰が宇宙と時間の無限の繰り返しを描くのに対し、輪廻転生は個々の魂の旅路として生まれ変わりを説明している。永劫回帰は、哲学的・存在論的な問題提起であり、人間の自由意志や価値の根源に問いを投げかける。輪廻転生は宗教的・倫理的な教義であり、善悪や因果応報の法則を通じて生き方を規定する。 永劫回帰は「同じことが何度も起こる」ことを前提とし、それを肯定的に受け入れることで生の力強さを示す。一方、輪廻転生は「魂が輪廻を脱して悟りに至ること」が最終目的であり、輪廻からの解放こそが真の救いとされる点で根本的に異なる。すなわち、永劫回帰は繰り返しの肯定であるのに対し、輪廻転生は循環からの解脱を志向しているのである。 両者はまた、文化的な背景の違いを反映している。永劫回帰は個人の自己肯定と自己超克の哲学であり、西洋の近代思想の文脈で展開された。一方、輪廻転生は共同体や宗教的実践の中で人間存在の意味を探求する東洋の伝統的な思想である。永劫回帰と輪廻転生はいずれも「循環する時間」と「繰り返す存在」という普遍的なテーマを持ちながら、その哲学的意義や実践的な意味において大きく異なる。これらの概念を理解することは、人間の存在や時間、そして生き方に関する多様な視座を広げることに繋がるのである。

虚無主義と超人 ニヒリズム

心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定し、永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。
 何も信じられない事態に絶望し疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。
すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。
虚無主義(ニヒリズム)とは、人生や世界に固有の意味や価値が存在しない、あるいはそれを認識できない状態や思想を指す。これは19世紀後半の西洋思想において特に顕著になり、既存の宗教的・道徳的価値体系が崩壊し、伝統的な価値観がその効力を失った結果として現れた社会的・哲学的現象である。
 
ニーチェは虚無主義を「価値の空白」として捉えた。彼によれば、キリスト教的な神の死に伴い、絶対的な道徳や意味づけの基盤が消失し、人々は無価値の海に投げ出された。この状態は一見絶望的であるが、同時に新たな価値創造の可能性の前兆でもある。虚無主義は古い価値観の終焉を告げるが、そこから逃げるのではなく、正面から受け入れ乗り越えるべき課題であると彼は説いた。
 
その乗り越えの象徴としてニーチェが提唱したのが「超人(Übermensch)」の概念である。超人とは、従来の道徳や価値観に縛られず、自らの意志と創造性によって新たな価値を打ち立てる存在を指す。超人は虚無的な世界の意味の欠如を嘆くのではなく、それを自らの成長と自己実現の機会として肯定的に捉え、自己を超克する者である。
 
虚無主義の問題は、意味や目的を失った結果として人間が絶望や無力感に陥りやすい点にある。これは個人の精神的危機だけでなく、社会の分断や混乱にもつながる。伝統的な価値体系が揺らぐと、人々は虚無的な無関心や退廃、あるいは代替のイデオロギーに依存する危険性を抱えることになる。
 
ニーチェはこの虚無主義の克服を「価値の再評価」と呼び、既存の善悪の枠組みを壊し、個々人が主体的に新たな価値を創造すべきだと主張した。超人はその理想像であり、自律的な意志を持ち、困難や苦悩を力に変え、自身の生を肯定する。これによって虚無主義の絶望を力強い肯定に転換することができる。
 
ただし、超人の概念は単なる自己中心的な成功者像ではない。むしろ深い自己洞察と他者への責任感、世界の意味の根源的な探求を含む高度な精神的成熟を必要とする。虚無主義の危険性に抗い、創造的な生の展開を示す哲学的挑戦なのである。
 
現代においても、虚無主義は依然として根強く存在し、価値の多様化と情報過多の時代において新たな形で顕在化している。超人の思想は、混迷する現代における自己実現や精神的自律の指針として再評価されている。ニーチェのニヒリズムと超人の対比は、意味の喪失と創造の永遠の問題を考える上で欠かせない哲学的命題である。

宗教の教義、書き換え可能な信念

「確認できない対象」を推測的に示し、信じるという行為によって排他性を持ちながら混乱を避け、未来に対する不安感を妄想で打ち消す。 これが宗教の構造であり、こうした教義が書き換え可能な信念の代表例。 書き換えが可能な信念 宗教の教義、書き換え可能な信念には不完全な論理構造が潜んでいる。

無限にある既に形成された状態、そうした混沌と心

無限にある既に形成された状態、そうした混沌と心 この空間は、いまただ単にあるものがあるという状態です。 それはこの瞬間に確定しています。同時に、時間というものもあくまで自我が「再生」の如く捉えているだけになります。



この心はただの認識する働きです。受け取るだけです。

既にあるものと心

諸法無我 仏教と哲学

仏教にある諸法無我(しょほうむが)の概念は哲学的にも素晴らしい論理が成り立っている。しかしながら諸法無我はわかりにくい概念であり、わかりやすく説明することが難しい。



諸法無我
仏教の三宝印・四法印として有名な諸法無我あるいは諸法非我(しょほうひが)は、パーリ語で「sabbe dhammā anattā」。これは、全てはあらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」というものは無いというような意味(厳密には「我ならざるもの」)。しかし、その理の中には複数の意味が複合的に内包されている。因縁によって生じたものであり実体がないというのが基本的な意味であり、因と縁により今生じているだけというのが諸法無我である。

虚構の事実と蓋然性

虚構の事実と蓋然性。蓋然性と推測。



世間での事実は全然事実ではなく事後的解釈であり、推定しその場で事実らしきものを意識の中で構築しているだけで事実ではない。ゆえに蓋然性が問題となる。情報だけを頼りに蓋然性と推測で何とか判断するしかない。
事実!そうだ虚構の事実!

五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦

五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦について。
五蘊盛苦(五取蘊苦)とは、「五種の執著の素因は苦しみをもたらす」「五種の素因への執著が苦しみを生じさせる」という意味であり、五蘊苦とは異なる。



五蘊とは、色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)の色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊である。
そして、五蘊に対する執着から生まれるものが五蘊盛苦(五取蘊苦)であり、五蘊苦は、五蘊から生じる即時的な苦しみである。
五蘊苦は、五蘊から生じる即時的で直接的な刺激等々であるため、どうすることもできない。
この、「どうすることもできない」ということに執著するというのが五蘊盛苦(五取蘊苦)である。


五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)五種の執著の素因は苦しみをもたらす

「ゼロ」の概念がもたらす錯覚と「苦」

「ゼロ」の概念がもたらす錯覚と「苦」について。



仏教上の求不得苦や愛別離苦は、「ゼロ」の概念がもたらす錯覚により生起する。 数学上の概念であるゼロが不足を生み出す。 本来認識の対象となるのは、あるように見える対象の1であり、0は想像上の0でしか無い。 記憶の連続性の中での記憶や想像と現実のギャップがあった時に想起される錯覚がゼロや不足である。そしてこの錯覚は精神としての苦しみを生む。 ゼロの錯覚

狂信の対象

狂信の対象 狂信の対象は、いわゆる宗教的なものだけではありません。企業や政治思想、末端はアイドルまで、様々です。

アイドルを仕立てあげて、殉教することに自惚れる、これは弱者の怨恨であるルサンチマンの表れです。ヒーローやアイドルだけではありません。愛社精神も含まれます。
彼は、自分とその同類が虐待されるのを我慢し、悲惨の全体を、新しい種類の自己欺瞞とお上品な嘘によって、神のさらに大きな栄光のためにさえなるように解釈するのである。彼は自己に敵対し、虐待される者として、その際殉教のようなものを感じる。

「信仰」という自己欺瞞

世間ではほとんどが信仰を持っています。そしてその信仰の正しさを主張することで苦しんでいるというのが実情でしょう。誰に何を訴えかけているのでしょうか。



信仰という言葉を見るとすぐに「それは宗教的な部類に入るから自分には無関係だ」という反応が起こるでしょう。たまに無宗派だと言っても、「それは無宗派という宗教だ」という人もいますから、やってられませんね。そんなにカテゴライズしたいのでしょうか。

「信仰」という自己欺瞞 陶酔への信仰

英雄崇拝と狂信

崇拝には狂信がつきものであり、英雄崇拝は対象が英雄ということにはなるが、何かを崇拝するということ自体がカルトである。



崇拝は狂信であり、対象が政治を含めた英雄であればよいというわけではない。候補者などを支援しつつ、聞かれてもいないのに「私はこの人を支持します」や「私も同じ考えです」と投稿するというのもひとつの狂気である。 英雄崇拝とその狂信者

仏教上の死苦を哲学的に捉える

仏教上の死苦を哲学的に捉えると、死そのものの苦しみではないことがわかる。
仏教の四苦八苦における死苦(しく)とは、死ぬ苦しみ、死の苦しみでありながらも、哲学上、経験は生の上にあるものであり、死そのものは経験し得ないため、厳密に考えると「死に対する恐怖」や「死にたくないという思い」から起こる苦しみを示すことになる。また、「死は免れない」ということを示す。 一般的に想起される死は頭の中で起こる現象としてしか形成され得ない。



死苦は対象が死になっているものの、哲学的に考えると生命としての死ぬ苦しみ、死の苦しみといったものは矛盾となり、論理の構造上死苦は、この生や生命への執著がもたらす苦しみであることを示すことになる。 「死苦」死ぬ苦しみ
死を想起し、死に恐怖を覚えたところで何をどうすることもできないという中、生への執著から苦しみ、不満足が起こる。これが仏教上の死苦である。

ニヒリズム

ニヒリズム、虚無主義は、この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場。


人間や現象に価値があるとかないとかいう議論がまずなされ、そこで無理矢理にも価値を見出そうとします。しかしながらどこか何かに無理がある、そのことに気づいてがっくり来るというのがよく聞くような話ですね。その前に価値とは何か、そして無価値の「無」は有の対義語ではないかもしれないということを考えてみましょう。何とかして見出したい「価値」とはおよそ効用や期待であって、とどのつまりは感情的なものです。そして、価値は相対的な価値と絶対的な価値に分類されそうになりますが、絶対的な価値は証明の必要がないので議論の対象にもなりません。ということで、価値がある/ないというのは相対的価値になります。

消極的・受動的ニヒリズム
    何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度。

積極的・能動的ニヒリズム
    すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度。

ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定
し、永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。
すべてのモノや現象に価値が云々、それ自体が本来はナンセンスな話です。つまり議論が成り立ち得ないはずなのです。あるのかないのかというのは認識の問題なので、ここでははっきり述べませんが、「ただ、ある」という何の属性も持っていない対象がそこに現象として起こっている、それに属性をつけた時点で価値の議論が始まるということになります。結果的に「価値があるんだから攻撃しないでね」というような心理面でのお話で、少し哲学とは異なる分野になります。

真理とは

真理とは、真なる理(ことわり)であり、真実の道理。よって真理は誰にでも確認できる断りでなければならない。真理が書かれているから聖典であり、聖典の記述であるから真理であるというようなものは論理がおかしい。



真理とは、誰にでも再現可能であり、今すぐに確認できるものであり、誰かの主義や考え方で変更できないようなものです。

真理とは何か?

過去は変えられない、未来は変えられる

過去は変えられない、未来は変えられる。をよくよく考えよう。



「過去と他人は変えられない。しかし、いまここから始まる未来と 自分は変えられる」他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」という言葉はカナダ出身の精神科医であるエリックバーンの言葉として有名?
いやいや少し待て。まだ来ていない「未来」が確定していないのに「変えられる」のはおかしい。

過去は変えられないが、未来は変えられる 論理破綻

確定しているものを変更するというのが「変える」であり、「変えることが可能である」という場合には、今現在、対象が意識の上ででも確定している必要がある。過去と他人は変えられない。いまここから始まる未来と 自分は変えられるというのはおかしい。「過去」と「他人」は変えられない。変えることができるのは「 自分」と「未来」だけである。? 変えられるのは「自分」と「未来」?いやいや論理が破綻している。

ニーチェと永劫回帰

ニーチェと永劫回帰。永劫回帰はドイツ語の「Ewig Wiederkehren」であり、永劫回帰がはっきりと登場するのは「ツァラトゥストラはこう言った」です。これはニーチェがルサンチマンやニヒリズムを脱却するものとして考えた思考実験的概念になります。


永劫回帰(永遠回帰)とは、「この生が何度も何度も繰り返されるとすれば…」ということをもって今の生を肯定する試みであり、ニーチェがルサンチマンやニヒリズムを脱却するものとして考えた思想になります。永劫回帰(永遠回帰)
永劫回帰(永遠回帰)は、生の肯定であり、宇宙において質量が保存され、そして時間が無限であるのならば、いつかは全く同じ状態になるという思考から導き出されています。永劫回帰の観念は、生きてきたこの人生をもう一度、 さらには無限回にわたり繰り返して生きなければならないという言葉から来ています。

アフォリズム 箴言

アフォリズム 箴言、警句。 アフォリズム(aphorism)


アフォリズムとは、簡潔にまとめた言葉、短い文章。 哲学、仏教、心理 アフォリズム。 社会、経済 アフォリズム。

懐疑はすでに罪である、に対して

懐疑はすでに罪である、に対して、これは一種の閉じ込めであると示唆する。 本来、疑うことで洗脳やマインドコントロールを回避することができる。 一方、疑うことは信じていないということであり、また信じているということは疑いを孕んでいるということでもある。 罪としての懐疑

行動の約束と感情の約束

行動の約束と感情の約束。感情の世界に制度の呪縛や行動の強制によって、感情を安定させようとする場合がありますが、約束というのは必ず「行動の約束」です。



行動の約束を守ってもいいですし、約束を守れなかった時の行動の補償はしてもいいでしょうが、感情は絶対に約束できません。その場は瞬間で変化しますから、感情の約束は性質上不可能です。

超人的な情熱に対する信仰のもつ価値

風習の倫理

倫理思想と風習の倫理…「風習とは、行為と評価の慣習的な方式である」結局宗教的なことを風習や文化だと解釈して倫理を定義している様がよくある。



風習の名の下、人格や概念の基礎ができるような時に宗教団体としての日本的仏教の方式を半ば強制されることは、無意識的にそれら宗教団体の正当性を支えるものとなりうる。

風習の倫理の概念

弱者の絆

不手際を棚に上げた弱者同志の絆。



何かしらのスキルをつけようともしなかったことを棚に上げて社会のせいにし、グチグチ言いながらもすがることしか出来なかった弱者たちは、弱者同志で群れ合って強者を非難する。 危機に瀕した者の慰め

「苦」には「私」がついているゆえ、私を取り除くとどうなるか?

「苦」には「私」がついているゆえ、私を取り除くとどうなるか? 「苦」には「私」がついています。 「私」がこうしたいのに、こうなりたいのに、できない、なれない、という構造です。 「私」があると、過去や未来がついて回ります。 では、私を含めた世界から、「私」を引いてみると何が残るでしょうか。 思考や感情と私 
思考を使って思考の領域を出ることはできません。厳密には限界まで達すれば端の方までは到達することはできます。しかし思考の領域を出る、換言すれば自我の領域を出るということはありません。

プロフィール

HN:
Nietzsche memo
性別:
非公開
自己紹介:
Nietzsche
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
ドイツの古典文献学者、哲学者。
ニーチェ自身は「心理学者」を自称。

哲学、ニーチェ