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Nietzsche ニーチェの軌跡

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

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女嫌い

女嫌い。「男性も女性も同じ人間だ」と勘違いしている人が多く見受けられますが、全く別の生命体。体の構造も異なっているのに、またホルモンからの影響なども異なるのに同じわけがない。女嫌いな男性の特徴。女性を苦手だと感じている男性、最近は女嫌いの男性が増えている。女嫌いの原因や特徴。女に関わる理由。

女嫌い
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力の感情

力の感情」といっても、支配欲のような、はたまた権力と言われるようなものの感情ではありません。そういった社会的な、誰かと誰かは「同じ世界にいるのだ」という錯覚から抜け出さないと、ニーチェの「力」すら理解はできず、誤解のまま終わってしまいます。力の感情
ルサンチマンは、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」です。何かが起こるときには何かの原因があり、人が何か意識の上でも行動を起こすとなれば、その手前には「衝動」があります。それを紐解いていくと、「力への意志」の正体がわかります。 ルサンチマンを含まないニヒリズムと「力への意志」

殉教に向かう方向性とルサンチマン

何かを崇拝し、敵の中に飛び込む、死を決して飛び込む様、つまり殉教に向かう方向性は、一種の自己陶酔であり、自惚れです。臆病者、つまり弱者の怨恨が、何かを崇拝するという形をもって、ルサンチマンとして解釈変更される試みです。ルサンチマンの一例。

批判への批判としての「ルサンチマン」

優越感を欲するのは意識的、無意識的問わず、自尊心を軸にしながら生きているからです。 優越感を刺激するものに対する「批判への批判」としてルサンチマンが使われたりします。 つまり弱者の怨恨であり、奴隷精神であり、解釈変更であり「僻みだ」と居直るようなことです。ルサンチマンはこういった使われ方もします。ただ、これは水掛け論であり、「見栄の塊だ」という批判への反論が「僻みだ」というのも、構造上決着がつきません。優越への努力 批判への批判としての「ルサンチマン」

修道女の純潔と復讐の快感 解釈変更とルサンチマン

修道女の純潔。彼女は何という非難のこもった眼差しで、違った生活の女性を真面(まとも)に見ることだろう!この眼差しには何と多くの復讐の快感があることだろう! 「そういう本来的な暮らし方を選んでいる自分たちは優れている」と「周りに主張」して、「優越感を得たい」という、最初に引用したようなことで、「基準を変える」というニーチェ風に言えばルサンチマンの典型例です。
修道女とまでいかなくてもルサンチマンが大好きな人は、自らの価値基準に従って、その価値基準に合致しない人は排除しようとする傾向があります。しかしその排除は合理的なものというよりも、優越感であり、解釈変更によって自尊心を保とうということの表れです。 解釈変更によって自尊心を保とう「優越感を得たい」というのもルサンチマンの典型例です。ルサンチマンとしての奴隷精神の解釈変更による「復讐」の快感です。

誇りやしたりと優越感

誇りやしたりは、自分だけが秘密を知っているという一種の優越感であり、弱者が強者に勝っているという自己陶酔をするための一種のルサンチマンでもあります。ニーチェは、ルサンチマンが大好きですから、価値基準のすり替えという点について触れることが多く道徳の系譜以降そればっかりです。
彼は相変わらず歯を食いしばり秘密をしっかりと守っている。諸君は人間の誇りの歓喜について何を知っていようか! 曙光 229

狂信の対象

狂信の対象は、いわゆる宗教的なものだけではありません。企業や政治思想、末端はアイドルまで、様々です。

アイドルを仕立てあげて、殉教することに自惚れる、これは弱者の怨恨であるルサンチマンの表れです。ヒーローやアイドルだけではありません。愛社精神も含まれます。
彼は、自分とその同類が虐待されるのを我慢し、悲惨の全体を、新しい種類の自己欺瞞とお上品な嘘によって、神のさらに大きな栄光のためにさえなるように解釈するのである。彼は自己に敵対し、虐待される者として、その際殉教のようなものを感じる。

感情の解消の方法論としての考え方の同化

感情の解消の方法論としての考え方の同化は、ろくなものではなく「ルサンチマン」の典型例です。

ある種の「崇高とされる思想」や「ある偉人と同じ考え方」に同化することによって、自らの弱った心持ちを何とかしようとする試みです。聞く側は、動機が「奴隷精神」です。

どんな時でも、「弱さ」からの動機なのではないか、仮想の敵をイメージしたりしていないか、注意が必要でしょう。

感情の解消の方法論としての考え方の同化は、「ルサンチマン」の典型例

盲目的前提条件と僻みの感情

方法論はあくまで方法論であって、その上には「絶対的に良いものですよ」というものは確定していないはずです。しかしながら、そのような語りの際には、おぼろげながらそれを飲み込んでいる場合があります。これが一種の洗脳状態であり、最大の危険性を孕んでいる最たるものです。

下手に反論すると「僻みだ」という叩きが待っています。僻みの感情ではないかということです。

これはルサンチマンではなく、論理上の当然の事実であり、解釈変更による自尊心獲得ではありません。

「信仰」という自己欺瞞

世間ではほとんどが信仰を持っています。そしてその信仰の正しさを主張することで苦しんでいるというのが実情でしょう。誰に何を訴えかけているのでしょうか。 信仰という言葉を見るとすぐに「それは宗教的な部類に入るから自分には無関係だ」という反応が起こるでしょう。たまに無宗派だと言っても、「それは無宗派という宗教だ」という人もいますから、やってられませんね。そんなにカテゴライズしたいのでしょうか。「信仰」という自己欺瞞 陶酔への信仰

プロフィール

HN:
Nietzsche memo
性別:
非公開
自己紹介:
Nietzsche
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
ドイツの古典文献学者、哲学者。
ニーチェ自身は「心理学者」を自称。

哲学、ニーチェ

ニーチェ

ドイツの古典文献学者、哲学者 悲劇的認識、デカダンス、神は死んだ、アンチクリスト、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志